第17回 「日本の一番長い日」
何だか気がつくと、つい2回も観てしまったこの映画。
なんでこんなに気になったのか、ちょっとこの場で考えてみようと思います。
戦史好き・近現代史好き・ヲタクの三重苦をこじらせてるあほの雑種犬が吠えるので、めんどくせえ気配を感じられた方はさあ今すぐ逃げるんだ!(猟銃を抱えて震えながら)
もともと私の親父・星海坊主はゴリゴリの戦中派、大東亜戦争当時は小学生で、私も餓鬼の頃から星海坊主の戦争体験はイロイロ聞かされて育ったわけです。腹が減れば川に行って遊びがてら魚とって食うとか、道パタの雑草摘んで雑炊にぶち込んで食ってたとか、戦後のGHQによる刀剣没収で、死んだ俺のじーさんが、うちに長船の子(審神者ゆえの表現)がいたのに供出しちゃったとか、まあ戦中戦後のあるあるですね。で、学校の授業では近現代史、特に戦史はとにかくぞんざいに扱われているので、もともとそういう話を聞かされてたのに、授業ではなんかそそくさと終わらせてしまうから、世間的には昭和初期からこっち、戦後までのほぼ空白なこの期間はどう捉えられているのかが謎で、しかももともとヲタクなもんだから、漫画やアニメや小説でその辺りの時代設定のものや、原点がその時代に据えられているものに触れることもあって、知識や情報が蓄積された結果、保阪正康さんが着目し再構成した、畠山清行氏の陸軍中野学校ルポまで読むように。
まあ、そうして太平洋戦争/大東亜戦争につながる近代史から派生して、終戦後に何があって世の中はどう動いたのかという戦後史まで関心が広がって、60年代安保やその辺りのゴタゴタも注目するようになって、それきっかけで倉橋由美子の初期作品なんかにも手を出し今に至っているのですが、そんなことは今どうでもいい。
要はザックリ戦中戦後の歴史について、おざなりにしか学校では扱わないから、実態が星海坊主の言う通りなのか否かがなんとなく気になっていたというね、そういうことです。
おかげで自分の中にある「世界の終わりを目撃したい」というオブセッションに気付いてしまうというおまけまで出て来たけど、それは別にどうでもいい。
要するに、この映画は「戦争の終わり」をどんなものにするのか、それに関わった人たちのお話です。
何せ戦後、さして時間が経っていないうち、当事者や近しい人が存命のうちにインタビューして記録したルポルタージュが元になっている映画なので、おかしなメロドラマ演出とかは一切なし。ローギアで全力疾走でもしているような緊迫感でもって、8月14日の正午からの24時間に起こったことを俯瞰して描いています。淡々としてるんだけど、いつ何が起きるのか誰にも予測も制御もできない感が凄まじい。
今この世界がなぜこうなったのか、どんな経過で今に至ったのか、そこが気になる方や、学校で今まさに近現代史を学んでいるという方、是非にこの映画を、最低限2回は観ていただきたい、そういう映画です。
まず、映画は連合軍からポツダム宣言受諾の打診を受けたところから始まります。これを日本国内でどう受け止め発表し、どう扱うのか。そこから議論は百出し、大概的にどう出るかを議論してる間に長崎に原爆が落ちるという、救いようのない決断力の欠如ぶりがアバンタイトルでまず描かれます。その後も天皇の扱いだの本土決戦だので内閣と陸軍がこじれにこじれ、その間にも泥沼の前線は叩かれ続ける。
この映画を要約すると、えー、なんだ。「最悪の展開を予測しないおめでたい連中が責任者になると国なら滅びるし組織なら瓦解する」という、これ以上なく生々しく痛い教訓であり、救いようのない事実ですね。
映画は1945年7月26日のポツダム宣言問い合わせに対する、連合国の回答が来たところから始まり、陸軍は何がなんでもどんぱちやりたがり、内閣はいい加減国力がないことがわかり切ってるので風呂敷畳みたがり、という姿勢のズレが描かれ、いよいよ運命の8月14日がやってきます。
内閣は「今決めないと北海道にまでソ連が侵攻占領に来る」と早々の幕引きを図りますが、個人的にはそうなっちゃう方がむしろよかったんじゃねえのかとか思ってしまう。
で、御聖断を仰ごうと、まあ若い方にわかりやすくいうと天皇の判断を聞こうよということですが、内閣の会議に出席してもらって、意見を伺うわけです。
陸軍は、若ぇ衆が頭に血が昇ってるの連中が多いのもあって、まだどんぱちやりたい。でも実際にはそんな余力、もう国内にはない。結局そういう実情を総理だとか 文民系の大臣に聞かされてる天皇の「もうやめようよ(要約)」で終戦は決定。ところが何せ陸軍の、参謀本部の若ぇ衆は、これまで負け戦の可能性なんか考えたこともない坊やの集団なもんだから、やりたくてやりたくて仕方ない。その、内閣の決定、天皇の決断ですね、それと頭に血が昇ってる部下連中との間で、陸軍大臣の阿南が板挟みになる。それと同時に、内閣では大臣達が自分の受け持っている省庁に結論を持ち帰り部下に報せ、事務屋は各々如何につつがなく仕事を畳むかで動き出し、軍人は終戦の知らせにクーデターを立案したり知らせを信用しなかったり、それぞれの立場でこの決定に向き合うのですが、その姿勢のとりようで、そいつの人となりが見えてくるのが面白いですね。
事務官は自決用の青酸カリを手配して仲間に融通なんて一幕があったり、また亡国名物・見られるとまずい書類でどんど焼きとかあったり、あと東京近郊の警備隊は人手が足りないからと言って、近場の未成年駆り出して、大臣を「亡国の徒」と決めつけぶっ叩きに出張り、という、社会の階層ごとにどうしようもない断絶があるのが、これ、今の日本と全く変わってないのがね、もう救いがない感がとめどもない。まず触れられる情報の質量が格段に変わり、更に基礎教育や経験学習の差が歴然として出てくる故に、大局的なものの考え方をできるか否かが変わってしまう。警備隊長の親爺なんてのは、短絡的にしか物事考えない馬鹿の典型として登場しますが、とにかくこの戦争は負けないと上から言われてるから負けない、的な思考停止をしてる人間特有の匂いがプンプン鼻につくキャラクター。ああこれでこいつ、進駐軍が来れば遠いところをようこそお越しくださいましたと熱烈歓迎してみせる、恥知らずの変節漢に平気でなれるんだろうなという、そんな予感しかしないおっさんです。この評価からおわかりいただけるかとは思いますが、私こういう人間が大嫌いです。
天皇と内閣はえー加減やめたいので、さあどうやって白旗あげようかと頭を捻る一方で、陸軍、ことに参謀本部の跳ね上がりは、それこそ真っ平になるまでやるのが当たり前と思ってる。特に参謀本部で熱心に駆け回って決起しようずとあちこちへ呼びかけ続ける畑中君はその典型。彼を純粋な故に割りを食った可哀想な若者と見るか、現実を冷静に受け止める知恵もない頭が幸薄い若者と見るかで、この映画の受け取り方もだいぶ変わりそうですが、まあ私はどっちかっていうと後者。国を愛してるかどうかと、現実にどんぱちやって勝てるか負けるかとは別の問題なんだけど、気持ちがあれば勝てるとかいう人はあれですか、単純な算数もできないんでしょうか。
あと、国を愛するのは文化を愛することであって、喧嘩すると強いんだと自慢することじゃない。
んで。
まあね、結局擦ったもんだの末に参謀本部のクーデターは失敗。師団長を説得できずに逆上して殺しちゃったことで足がついて、近衛師団騙して動かそうとしてたのがバレるわけですが、こういうでかいことやろうとするなら死人を出すのは最低の悪手。一つコケればそこから先は全部、即興で取り繕うしかないんだから。ここですでに失敗は決まってたの。
最後、畑中君は「お前のそれは未練だ」と指摘されて、失意の中宮城を前に自決しますが、彼はまだ、自分がやらかしたことに殉じただけ正直者ですね。
一番タチが悪いのが警備隊長の親爺みたいな人間。当時子供だった世代の方が「玉音放送の後に教師が真逆のこと言うので人間不信になった」と証言されているインタビューなどありますが、星海坊主もその口な様子で、だから軍人は大嫌い。まあね、ラジオ番組1本でそれまでの価値観書き換えろとか言われて、それまでふんぞり返ってたクッソ不愉快な大人が、外国人がきたら旗振ってお出迎えとかするんじゃあ、あほかとしか言えないよなあ。
で、この24時間の間にクーデターが起きて、同時に終戦のために内閣は広げに広げた風呂敷畳み、厚木基地では命令無視して特攻隊出撃させ、文官は玉音放送の原稿書き、横浜警備隊は子供駆り出して総理の暗殺しようとして捜し回り、えねっちけのスタッフはいきなり呼びつけられて出張録音収録の支度をさせられ、と、まあすげえな煮しめたようにイロイロ起こるな。で、降伏終戦だから部下は絶対にいうこと聞かねえと踏んでる陸軍大臣は、天皇の御聖断、決裁が降りると、それまで若ぇ衆納得させるために本土決戦だ徹底抗戦だ、と馬鹿の一つ覚えで繰り返してたのを引っ込めて、若いもんを再就職させられる職を見繕ってやってくれと言い出したり、終戦の御名御璽に署名したあとで総理に餞別渡したり、覚悟を定めたのか諦めたのか、身辺整理して、屋敷に来た若い部下2人の目の前で割腹。
とまあ、こうやって日本は降伏したわけですが、それがよかったのか悪かったのか。
ここでね、憲法を自力で作ることすらできない程度の国だったと露呈したこと、あまつさえ他人様が考えた憲法案をそのままおしいただいて、ありがたやありがたやと、お国柄に合わせてアレンジするなどの工夫もさしてせずにそっくり使っちゃったりして、自分たちでは何も決められない、決めるほどの知性も気骨もない国だということをさらけ出しちゃったのがねえ。
最初のうちはそれでもよかったんだよ。でももう、そういうものは通用しなくなっちゃったのに、何せものを考える、決めるということができないし、しようとも思わない国だからね、今になってつけを払えと言われていて、でもなぜつけが発生したのかすら理解ができてない。
もしかしたら、この昭和20年夏の時点で分断統治されてたら、もう少し自分のことを自分で決める風土が育っていたんじゃないのかとも考えてしまう。
この映画観てるとね、軍人は揃って「国体」「国体」とさも大事なもののように言っておりまして、これ、たぶん今の若者には理解が及ばないものだよなあと思うんですよ。そんなもんないからね。実際にはないからね。ただただ体裁とか面子とか、そういうものでしかないので、そんなもん鼻紙にもならねえや。
んで。この作品で得られるのは「最悪の事態を想定しないで行動するのは馬鹿」「終わりのときに後片付けもせず悪足掻きするのはただただみっともない」という教訓であり、あと、馬鹿はきちんと相手に伝わりやすい落ち着いた話法ができないという、一種の馬鹿判定法も見出せる。
何かでかいことをなすときには、わあわあ喚くしか脳がない空頭を仲間に入れると破綻するからやめた方がいいよ。
私が一番好きなシーンは、クーデター起こしたあとで畑中君が馬とバイクでアジビラばら撒くシーン。ビラは肝心の軍人仲間には見向きもされないどころか存在すら知られることなく、浮浪児が夢中で拾い集めるの。これ、子供たちは紙拾って反古屋、今風に言うならゴミ回収業者とか資源リサイクル屋とか、そういうところに持っていくとお金になるから、1食ぐらいのお金にはなる。結局畑中君たちのクーデターは絵空事でしかなくて、彼らは全然現実を生きてなかったという、すげえ皮肉ですね。それをアジビラ拾いに夢中になる子供たちというワンカットで見せちゃった。
「2・26が失敗したのは、あいつら陛下担いでなかったじゃん」「俺らは陛下を仰いでるからカチグミだっぺ」なんてことをのんきに言ってるやりとりがありますが、これだけでもう、畑中君たちクーデター勢力が現実に生きてるわけじゃないのがお察し。「お前の純粋さを見込んだ」とクーデターに付き合ってくれてた白石君は、師団長が目の前で斬られちゃったので愛想尽かして陸軍大臣に会いに行って臨終に立ち会う。彼は当初、なんかこのまま畑中を放り出すのも忍びないし、と思ってたのが、師団長説得できなかったらやめるんだぞ、って約束してたのにやめないもんだから、ああこいつら見たいものしか見ないんだなと悟って愛想尽かしちゃった。
たぶん、この映画で描かれた8月14日15日のなかで、一番現実を生きてるのは、アジビラ拾って売りに行こうとしてる子供たちだと思って観てました。
毎年夏になると終戦もののドラマや映画がわさわさ作られ公開されますが、この時代の現実を見せてくれたのは「この世界の片隅に」とこの映画の紙拾いする子供たちだけでした。
あのワンカットだけで2時間は語れる。そういうシーンでした。
ここで全く関係ない話をオチがわりに。
冒頭で挙げた、長船の子を供出しちゃった俺のじーさま、実際に1年だか2年だか徴兵で引っ張られたそうで、帰ってからばーさま(俺生まれる前に故人)に「日本負けるなこりゃ」と言って「そんなこと外で絶対言うな」とめっさ叱られたそうです。そういう時代だった。
結論。そんなにどんぱちやりたいなら、同好の士だけでやればよい。一般人に肩代わりさせるんじゃねえ。
と思ったら、しまった。
第16回 二本立てスペシャル「キングスマン」「キングスマン ゴールデンサークル」
3連休の大半をぶち込んで観てしまいました。
俺得でしかないスーツ姿のイケオジ炸裂スパイアクション映画。
誰だ今「コリン・ファースが一分の隙もなくスーツ着てるのが好きなんだろ」とか言ったのは。ああそうさ嫌いじゃないさ。わかったらガタガタ抜かすな。
若者はネタとしてしかご存じないでしょうが、昔からこの手の「大富豪が世界平和のために私財を投げ打って組織を作る」的なお話はあって「サンダーバード」なんかもその系譜ですね。あれは大富豪が自分の息子や姪をエージェントとして、名前もそのままずばりな国際救助隊を創設しておりました。
この映画に登場する組織・キングスマンは、貴族御用達だったテーラーが、顧客たちの資産を相続することとなり、その莫大な資金を国際平和に貢献するために使おうという目的で結成されたもので、何せ元が貴族御用達の店なだけに、顧客のルートで世界中に多種多様なコネクションがありますから、その手の情報収集や操作、武器や特殊な道具の手配や開発には困らない。
そんな組織のエージェントだった父親を幼い頃に亡くしたエグジーは、夫を亡くし失意のうちにあったのも束の間、すっかり自暴自棄になった母親と、父親の違う幼い妹と3人、ド底辺の生活をしておりましたが、ひょんなことからかつての父親の上司と出逢い、その手引きで、生前の父がいたキングスマンのエージェント候補に。数々のテストや訓練を受け、何事も諦めて流されるしかないのだと思っていた彼は、堂々たる紳士に成長していく━━。
というお話。この映画はスパイアクション映画であり、主人公の成長を描くビルドゥングス・ロマンであり、また師弟の絆の物語でもあります。
最初はこんな、ちょいヤンチャな若い子が好むカジュアルファッションのエグジー君ですが、「君のお父さんに命を救われた」というハリー=センセイによって、きちんとした教育を受けるチャンス、キングスマンのエージェント候補訓練を受けると、だんだんファッションも変わっていきます。
まず訓練中の私服がタータンチェックのジャンプスーツに白いワイシャツ。一度は最終試験で落とされてしまうものの、思わぬトラブルと、ハリー=センセイとのつらいお別れを経て、改めて組織の一員として迎えられることになるとこうです。
で、またこのスーツがねえ。なにせ表の仕事がテーラーだから、仕立てがきれい。ちゃんと全員ジャストサイズに仕立ててあるから、どんなにハードなアクションしても崩れないの。
まず1作目では、携帯電話やネットツールを悪用してヒトの脳に直接作用し暴力的にする電波を発生させようとした大富豪が悪役として登場します。事前事業としてネット使用や通話を永久無料にするICチップを希望者に配りますと称して、電波を送り込むチップを世界中にばら撒き、地球環境のために人間を淘汰するという自分の思想に共感した国家元首やセレブだけをシェルターに保護して計画を実行。それを阻止するためにエグジー君はシェルターへ潜入するのですが、そこで待っていたのは、訓練過程で失格したセレブの倅・チャーリーでした。
この、シェルターでの白兵戦が、スーツなんてカチッとして動きが制限されそうなもの着てるのにここまで動けるのかというねしかもここまで動いていながら着崩れることがないってすごくねえかとね。このシェルター潜入の前、悲しい別れ方をするハリー=センセイの潜入捜査のシーンもね、スーツ着ててこんなにアクションできるってのが、目からいろんな体液出そうなほど眼福。
この騒動は、富豪の私兵に追い詰められたエグジー君の閃きによって無事解決。
組織の志を忘れ、富豪のキラキラした口上に乗ってしまったキングスマンの元締め・アーサーはエグジー君の機転によって死に、冒頭でハリー=センセイが危惧していた組織の動脈硬化は無事回避されます。新たな元締めが選任され、エグジー君はハリー=センセイの跡を継いで、エージェント・ガラハットとなり、きちんと職を得て、晴れて街のチンピラのリーダーの情婦になっていた母親と幼い妹を迎えにゆきます。
このラストが心憎い。
出逢ったその日にハリー=センセイがチンピラを叩きのめしたのと同じ手順で、何かと母を殴るチンピラ間男を叩きのめすの。
この一連の流れを、ラストでエグジー君が再現するんですよ。お母さんを迎えに行ったその場で。
しかもハリー=センセイの名台詞「マナーが人を作る」をやっぱり同じように口にして。センセイ大好き芸人か! でもわかるー。
このシリーズ、キングスマンのコードネームは皆様Fateシリーズでおなじみ、円卓の騎士からきてるのね。
で、ハリー=センセイの跡を継いだエグジー君と一緒に、空席になっていたランスロットを継いだのが、訓練仲間のロキシー=チャン。
賢くてかわいくて気立てもいい子です。
そして情報操作やエージェントのバックアップを務めるのがマーリン。ただし王の話はしない。
1作目の悪役がこの方ってすげえな。
ストイックな黒いパンツスーツに両脚の義足で格闘する美人秘書・ガゼル=チャンを連れております。趣味いいな。
で、2作目「ゴールデン・サークル」の悪役がこちら。
あちらもんのお料理番組とかで料理教えるカリスマセレブ主婦みたいな感じですね。得意料理はハンバーガー。使えねえ部下でミンチ肉を作っておにくを焼き焼きします。
映画公開当時にバーガー屋がコラボメニューとか出してたそうで、いや、どうなん。みんなこれをどんな顔して食ってたの。
今回は、前作で生き延びてたチャーリーが落ちぶれて、キングスマンに復讐しようとします。組織の情報を手土産に、お料理マダムの麻薬密売組織に入り、なくした声帯と右腕を機械にした部分サイボーグとして登場。こいつの罠により、キングスマンの各拠点は襲撃を受け壊滅、ロキシー=チャンも、エグジー君が留守を頼んでいた親友と愛犬・JBも殺されてしまいます。当然テーラーも襲撃されており、大慌てで駆けつけたエグジー君は、同じく異変を知って駆けつけたマーリン=サンと合流。マーリン=サンは事務方だから、住所が本部の連絡網に載ってなかったのだ。
生き残った2人だけで、さあどうやって戦おう?
組織の最終緊急プロトコル通りに隠し金庫を開け、中にあった酒のボトルに隠されたヒントを手がかりに、舞台は新大陸へ。なんとそこには、キングスマンと志を同じくする組織・ステイツマンがあったのです。
表向きはウイスキー工場。酒蔵の一つが本部への出入り口で、奥にはハイテク満載の基地が。
で、勝手のわからないアメリカで、マーリン=サンとエグジー君のサポートをしてくれるのが、ベテランエージェント・ウイスキー=サンと、キングスマンではマーリン=サンが務めるサポート役を引き受けるジンジャー=チャン。
ジンジャー=チャン、ハル・ベリーなんですよ。クッッソカワイイ…。
チームはハンバーグ名人のポピー=サンが大統領へ向けて宣戦布告したことで、掴みどころが得られずにいた組織の正体を知り、チャーリーの元カノをとっかかりに、組織へ肉薄していきます。
前作で死んだと思われていたハリー=センセイとの感動的な再会、記憶喪失になっていたセンセイをエグジー君が荒療治で回復させたり、という、前作を観ていればこその胸熱シーンももりもりですが、ポピー=サンの拠点の一つへ潜入、脱出行のさなか、センセイが同行するウイスキー=サンを敵と疑うなど波乱も含みつつ、映画はクライマックスへ。
ポピー=サンの「自社製の麻薬に殺人ウイルスあつ盛り計画」により、世界は大混乱。ワクチンを載せたドローンの発射プログラムのキーワードを求め、ポピー=サンの秘密の基地へと向かう、エグジー君、ハリー=センセイとマーリン=サン。ところがここで、地雷を踏んでしまったエグジー君を助けて、マーリン=サンが漢道炸裂の壮絶な自爆を決めます。
でかい声で「カントリー・ロード」熱唱しながら、正面ゲートの見張りを全員引きつけたところで起爆。
前作の冒頭、テロリストの自爆に仲間を巻き込むまいと、エグジー君のお父さんが手榴弾を押さえ込み爆死した、その現場に、ハリー=センセイと共にマーリン=サンも居合わせていたのです。
「今こそ君のお父さんの恩に報いるときだ」って、いい笑顔で熱唱して覚悟の自決ですよ。
仲間や親友をなくしながら、それでも、いや、だからこそ前へ進んで、大事な人たちがいた世界、今大事な仲間がいる世界を守ろうと、エグジー君とハリー=センセイは戦うのです。
どうにかポピー=サンからキーワードを引き出し打ち倒したものの、そこへタイミングよく現れる真の敵。
そう、ハリー=センセイの読みは正しかったのです。
かつて何より悲しい別れを経験したウイスキー=サンは、その引き金となった麻薬を、それを使うものを激しく憎んでいました。
「世界中のジャンキーを粛清できる好機じゃないか」と、その誘惑に抗うには、過去のお別れは悲しすぎたのです。
なにせお互いエージェント同士、戦闘能力は伯仲しておりますが、仲間を捨て信念だけしか持たないウイスキー=サンには、師弟のコンビネーションは打ち破れませんでした。
もうね、前作を観てると、ついにエグジー君がセンセイとコンビを組んで戦えるぐらいに成長したのが胸熱。
あとねえ、事あるごとにエグジー君はセンセイが教えてくれたことを思い出したり、今はセンセイの家をそのまま維持したくて住み込んでたり、過ごした時間は短くても、すげえ尊敬して慕ってるの。前作のあのシェルターで、独房に放り込まれてた北欧のお姫様ナンパしてたのが、その後もきちんと真面目にお付き合いしてて、ご両親に会うからってんで彼女がテーブルマナーのことを心配すると「得意だよ、ちゃんと教わったんだ」って、センセイが教えてくれたんだよねえ。
そういう、センセイが教えてくれたことを宝物みたいに大事にしてるのがね、前作ラストのあれといい、こう、グッときませんか。俺だけですかそうですか。
あとねえ、このシリーズ、脇を固めるゲストがすごい。
1作目はマーク・ハミル、2作目にはエルトン・ジョン。最初そっくりさんでも連れてきてるのかと思ったら、エンドロールのキャスト見て「まじか」と。ポピー=サンが毎日エルトンのなま歌聞きたくて連れてきちゃったのが、いい加減アジト生活に飽きちゃってたので、見張りの私兵にドロップキックかまして脱走して、警備のワンチャン型ロボットにハリー=センセイが襲われてると助太刀してるし、なんかストレスたまってるんすか?
本人です。まじで。
あと、ステイツマンのボスもイケオジですね。燻銀なイケオジアトモスフィア濃厚ぶりを見て。
最後は、作戦中マーリン=サンに「私も現場に出たいってずっと志願してたの」ってこぼしてたジンジャー=チャンは、ウイスキー=サンの抜けた席に収まることになり、壊滅同然の状態だったキングスマンは、酒類販売の他にも株式投資などでがんがんに稼いでいるステイツマンから資金援助を受けて再建することになり、ワクチンは無事世界中に行き渡りハッピーエンド。
喧嘩してエグジー君と気まずくなったまま国へ帰っていたお姫様も、おそらくは持ち前の好奇心で摂取してしまった麻薬のせいで危険な目に遭っていましたが、ワクチンで無事に回復。
ラストがねえ、なんとエグジー君、無事にお姫様と身を固めることになります。
前作でのこのシーンが、思えばすべての始まりでしたが、ハリー=センセイはエグジー君に、このときにかけたのと全く同じ言葉で、人生の新しいステージへ踏み出す弟子を祝福するのです。
「エージェントは孤独」と言っていたハリー=センセイは、たぶんそういう旧来の組織のありようを変えて、これから先の時代を生き延びていけるものにしていきたかったのでしょう。訓練中、プログラムの一環として与えられた子犬を撃てと言われたとき、自分は虚無しか感じなかった、と語ったセンセイは、こう続けます。
「守るものがある者は強くなれる」。
たった独りで生きて、いつ任務の最中に死んでもいいようにしていたセンセイは、守りたいものを両手いっぱいに抱えているエグジー君に可能性を感じて、先へつながる道を予感していたのでしょう。お母さんを支えて、小さな妹を育てて、友達や好きな女の子のことだって守りたい。そういう大事なものがたくさんあれば、世界を守ろうとする強い動機になる。人間は、ただ漠然としたお題目ではなかなか動かないもので、そういう具体的な、実感を持てる何かのためならがんばれるものなんですよ。
だから、エグジー君にとってハリー=センセイは、自分を真人間にしてくれて、世界への扉を開いてくれた人だけど、センセイにとってのエグジー君は、自分がなぜエージェントになったのか、その原点を思い出させてくれて、今ある世界を大事だと思わせてくれる希望なのかもしれません。
この2人は、どっちが欠けてもダメなんですよ。
と、散々語り散らしもっともらしいことを並べ立てましたが、結論。
一分の隙もなくスーツ着たコリン・ファース最高かよ。
私がひたすら目の保養をするには最高すぎる映画でした。
1作目観終わったあとで、スーツ姿のコリン・ファースを更に摂取するために「裏切りのサーカス」観始めちゃったし。
おっさん。若い子よりも程よく脂っ気の抜けたおっさん。
この味は若いだけでは出せないぞ。
あ、音楽の使い方もなかなか。1作目のクライマックスでの「威風堂々」は腹抱えながら観ておりました。拙者こういうセンス大好き侍。
この手の映画、大概主人公は女の子といい雰囲気になっても次作では存在すらなかったことになりがちですが、このシリーズはその点、エグジー君がちゃんと1作目でいい感じになっちゃったお姫様と真面目に交際し続けて、結婚までしてるのがすごくよかった。ちゃんと男としての責任を貫いてて、いい子だ…。
とにかくアクションのキレがハンパないうえ、何気なくブッ込まれたジョークが黒いし、何よりスーツ姿のコリン・ファースを舐めるよに拝める素晴らしきシリーズなので、いっぺん観てくれ。騙されたと思って。
ということで、さて、次の映画は何にするか、物色を始めるかな。
第15回 「日本沈没」
1月も半ば近くなりましたが、ついに非常事態宣言出ましたね。まだ部分的ではありますが、全国規模になるのもそう遠くないと思われますね。
で、もともと冬場は仕事が暇なところへそれなもんだから、もう死ぬほど暇。お茶のストックもやばい。
主にお茶の残量への不安からとち狂って、今日はこれ。
よりにもよって1973年版。剛君とか柴咲コウ嬢でない方だ。どうだ。ポスターからしてくどいだろう。
キャストの芝居も温度湿度ともに高め設定。もはや藤岡弘、氏の頼もしさだけではフォローしきれねえぞ!
お話自体はタイトルのまんまです。
海底の調査中に地層の不穏な動きを見つけた学者が、総理肝煎の非公式プロジェクトに参加。徐々に回数が増え規模が大きくなる地震の中、プロジェクトチームは必死にデータを取り、最悪の事態を予測し、一般市民に避難を呼びかけ、いかに日本国民を一人でも多く沈みゆく日本列島から脱出させるか、八方手を尽くす、という、政府中枢に近いところから状況を描いております。
展開は、以前観た「復活の日」同様、やっぱり原作の小松左京先生のルサンチマンとかトラウマがこれでもかと盛り込まれております。お味の濃さはラーメン二郎ばり。
中盤、日本からの避難民を受け入れてもらえないかと、国土面積の広い国に手当たり次第交渉するんだけど、どことははっきり言わないものの、国家元首に極秘で面会して「これはそうりから個人的にプレデント」って仏像出したり、あからさまな袖の下なんだけど、それにしたってしょぼいし、そんな個人的になんかもらったからって、それが即座に国政、それも何百万の難民受け入れなんてでかい規模の政策につながるわけねえだろ。
あとたぶん、メインのストーリーにおっさんばっかりで華がないからなんだろうけど、海底調査のために雇われた潜水艇のパイロットな藤岡弘、氏と成り行きで婚約するヒロインにいしだあゆみが出てるんだけど、見事に本筋と関係なくて、なんかただただ華やかさが欲しくて恋愛要素ねじ込んでみた感がすげえ。あまりに違和感しかなくて逆に不憫だった…。
だって、藤岡氏が思っくそ「君のことが好きなのかまだよくわからない」って言っちゃってて、でも藤岡氏はナイスガイなので致したら男として責任持つし身を固める覚悟もするだろうけどさあ、好きなのかどうかもわからないけどとりあえず結婚の約束はした女の子を、災害に巻き込まれたからとはいえ、あんな必死に捜すか? 責任感だけだぞ。あそこで彼が持ってるのは。そこまで強い動機になりうるか?
という、俺個人の違和感はひとまず置こう。
人間の本性は非常時に出やすくなるとは言いますが、本編中、総理選任の際に口を利いたとかいう、政財界の黒幕な爺さんが、個人的に高僧と社会学者と心理学者を呼び寄せて、政府への方針案をまとめさせるんだけど、そこで実務的なプランの他に余禄として出た3人の私見の総まとめが「何もせんほうがええ」。
今、この状況下でこれを見ると非常に生々しい。
で、作中で日本政府は、避難民の受け入れ先を探すと同時に、皇族はアメリカ・ヨーロッパ・アフリカの3ヶ所へ分散して避難。国土がなくなるこの期に及んで尚「国体」とかそういう言葉に代表されるものだけは守ろうとする。
いや、まあそういうファンタジーがないと生きていけない人がいるのもわからんでもないけど、私個人としては、何かに帰属してるから生きていられるという意識がめっさ低いようなので、その辺の心理は理解できなくはないけど、それよりまず行った先でどうやって生きるかが重要なんじゃないのと思った。
で、この映画の最大の見どころ。
特撮。↑こちらでジュン君がが全部解説してくれてる。
コレな。
とにかくボッカンボッカン爆発と火事と大水。
で、人間が出てくるとひたすら地味な画ヅラに。
全体的な感想は「とにかくくどかった」。
まあ、いっぺん観ておく分にはいいと思います。特に今のこの情勢下で。
コレと「復活の日」二本観れば、小松左京先生の大東亜戦争へのルサンチマンとかが窺い知れて、なんか香ばしい気分になります。
最後にひと言。
二谷英明が若いのでちょっと驚いた。
第14回 「GHOST IN THE SHELL」「イノセンス」二本立て
先日うっかり「鬼滅の刃」という広大な底無し沼に落ちましたが、とりあえずどうにか無事です。
今日は久しぶりに観たらやっぱり面白くて、もはや数えるのも不可能なぐらい観てるこの2本にしました。
いやほら、攻殻機動隊のシリーズだし。一緒に観ないとでしょう。
と思ってなんとなく観てたら、いきなり再確認した。これ、二本立てで観ないといかん映画だった。
まあね、もはや言わずもがなというくらい、広く知れ渡った映画ですがね。ウォシャウスキー姉弟をはじめ、海外の映画監督にどでかい影響を与えたということでもよく知られてますよね。「ルーシー」なんて、ヒロインの感覚が拡張した描写がもろにこのシリーズの演出方法の劣化版でしかなかったし。
やっぱりどうしたって、後発の作品はこのかっこよさにはかなわないし、いまだにこれを超えるものが出ないってところがいかにすげえシリーズかを物語ってるよなあ。
まず1作目「GHOST IN THE SHELL」では、謎のハッカー・人形使いの正体を知った公安9課と真相の露見を恐れた外務6課の攻防と、その渦中で当の人形使いから素子さんにある取引が持ちかけられ、彼女が大きな選択を迫られることになるわけですが、続く「イノセンス」はその2年後、素子さんが去った公安9課が、これまた人形が絡んだ事件を手掛けることになり、素子さんの相棒であったバトー君と、素子さんが所轄からスカウトしたトグサ君がコンビとして捜査に当たることに。
押井作品の例に漏れず「何万回でも観られる」「観るたびに発見がある」のはこのシリーズでもそうですが、今回2作続けて観たら、もう何万人が気づいていることと思われますが実感した。
この2本は続けて観なくてはいかん。
どちらも大きな要素として「人形」が出てきますが、その描かれ方扱われ方が対極にあるんですよ。
まず「GHOST IN THE SHELL」では、魂を得た人形が真に「生命」といえるものになりたくて、自身の造物主を裏切る物語ですが、片や「イノセンス」は、まがい物の魂を吹き込まれた人形のありように疑義を持つものでして、いや、ここまでかけ離れると皮肉だなあ、と思うんですよ。
じゃあ魂とか尊厳とか、そういう言葉に代表されるものは、何に裏打ちされてるのか。
ゴーストハックされて偽の記憶を植え付けられた人間は、自分のよって立つアイデンティティを失い、
魂をコピーされて人形に植え付けられた子供は、自分の悲鳴を人形に埋め込み、わたしは人形になりたくないと拒絶する。
一方で人間は機械の体を自在に乗り換え、自身の体と同じ機械仕掛けであっても、魂がない人形を使い捨てる。
またその様を見て「人形に魂を吹き込んで人間を模造しようなんて奴の気が知れんよ」と人間の不完全さを嗤う者もいて、
じゃあ魂だ意識だ自我だ、という、人間が人間として存在するのに必要不可欠だと言われているものは、実際のところなんなんだ、と観ながら考えてしまうわけです。
「よつばと! 」でクラゲを見たよつばに「いきてるってなに」と訊かれて答えられないとーちゃんのようになりながらも、やっぱりこの2本を観ると考えてしまうんですよ。
そうやっていまだに誰も明確な答えを出せない命題を、主要なキャラクターが各々のやり方でこね回している一方で、いきてるだけで幸せでごはんがうまいだけで幸せな、バトー君のわんこがいる。
くっっっそかわいいな!
で、たぶんあれこれを考える人間の浅知恵は、このわんこには決してかなわないような気もしたりして。
この子は何せわんこなので自覚できないだろうけど悟っているこの言葉の境地には、たぶん人間は到達できないのかもしれない。
まさに「朱雀を求めて北門より出づればたどり着く前に息絶える」ということか。
皮肉だ。
で、たぶんそういう断絶を唯一乗り越えているのであろう「守護天使」素子さんは、だから情緒がだいぶ人間からはずれている様子で、それでもバトー君を見守り助けの手を差し伸べるというところで、希望や可能性が感じられるんですよ。
マトリクスの裂け目の向こう。魂を持たない人間が住む世界。神と動物の境地。そんな場所にあっても、繋がる事は、わかり合う事はできるのではないか。互いを思いやる事はできるのではないか。自分ひとりだけのところではなく、他者と共にあれるのではないか。
ヲタク的に作画の凄さやアクションの鮮やかさ、参加したスタッフの目から血ィ噴きそうな豪華さを云々する楽しみもありますがね。押井作品は、それだけで終わるのはもったいない情報量だと思うんですよ。
キムの館の中、あちこちにあるホログラムが「ニューロマンサー」のヴィラ迷光を思い出すとか、そういう細かいところばっかりほじくってたらいかんのです(目を逸らす)
確かに背景すげえし、人物もちゃんと骨格と筋肉から人体を描ける至高のマエストロばかりが手掛けておられるので、画面観てるだけですげえんですが、それだけじゃいかんの。いっぺん押井作品の、印象的なセリフだけでも抜き出しながら1本観てご覧なさい。情報が質量ともに打ちのめされるほど濃厚だから。私もね、この2本と「アヴァロン」「スカイ・クロラ」「トーキング・ヘッド」「人狼」でやったけどさ、やりながら再起不能レベルの猛打を受け続けたもの。でもやると得るものもあるよ。
能書きばかり並べてますが、要はこのひと言に尽きます。
観て。2本続けて。できれば5回ぐらい。そうしたら、私が何を訴えたくて無駄吠えしているのか、なんとなくでもおわかりいただけるかと思うので。もしわからなくても、なにかしら得るものはあると思いますから。
最後にねじ込んだれ。
わんこかわいいなあ…(結局それかよ)(いぬ大好き)
あとねえ「イノセンス」はチョイ役に味のあるおっさんが多いのも高評価なんだぜ。
チャラ男には興味ないネ。男は味があってなんぼヨ。
オショガツ特別版・第13回 「鬼滅の刃」炭治郎立志編一挙上映
えー、2020年内にあと1回ぐらい行けるかとも思ってましたが、年を越しちゃったのでオショガツスペシャル。
今回はタイトル通り、まああれこれ言うことはないですね。
今、小さな子供がいるご家庭のほとんどで必ずあると思います。炭治郎の半纏や禰豆子の着物とお揃いの柄のジャケットやマスク。そのぐらい流行ってる作品を、今更正月休みに乗じてひと息に観ました。ネトフリで。
時代は大正初期。任務で炭治郎が訪れた浅草に十二階があるということは震災前ですね。まだ闇が駆逐されず、怪異が生き残っているギリギリ最後の時代でしょう。家業の炭焼きで生計を立てて、父ちゃんを病気でなくしはしたものの、残った母ちゃんと弟妹とホカホカ平和に暮らしていた炭治郎は、鬼に家族を殺され、唯一生き残ったすぐ下の妹を鬼に変えられ、それでも凄まじき精神力で人を食わず自分を守る禰豆子を連れ「妹を人間に戻す」という目的だけを引っ提げて、幼い兄妹二人きり、いつ終わるかあてのない旅に出る━━。
と、改めてあらすじを挙げるのすら野暮なほどに大流行りしておりますが、押井監督が「和製ヴァンパイアスレイヤー」とインタビューで触れていたのもあって、ちょっと気になり観たわけです。実は結構ヴァンパイアもの好きなもので。
うん。日本が舞台ということで、わかりやすく「鬼」と呼ばれておりますが、ちょっと捻ったヴァンパイアものですね。
主人公たちがなぜ戦うのかは当然として、鬼の側も「なぜそこへ至ったのか」「何がそうさせたのか」をしっかり描かれている。で、それが結構切実なもので、他にも道はあったのかもしれないけれど、そこへ至ってしまったもの悲しさが垣間見える。
しかも、それを討ち倒す側の炭治郎が、単に鬼コロスマシーンとか鬼死ね死ね団になってるわけでなく、その辺を悟って、一番つらいところは救っていくのが、ああこの子はどう転んでも長男なんだなと。無意識レベルで、身の回りにいる誰であれ、当たり前に背負っていっちゃうから、伊之助にも社会的な常識だとか、チームで動くのに必要な連携だとかを教えていくし、鬼にはそうなる「前」があるんだからそこだけは救ってやらないとダメなんだと、あほほど強い上に組織の重鎮になってる兄弟子にも意見する。
で、ただ長男属性なのかなと思って見てると、何せ山育ちなもんだから、世間知らずなぶん素直で、教えられたこと素直にそのままやろうとしちゃうから、大人は心配になるよね。この子こんなにすぐ他人を信じちゃって大丈夫なのか。ただし妹をブサイクと言われると凄まじきご立腹だったので、そこは判断できるのはオジさん安心したよ!
その周りにいる大人たちもいろんな過去を引きずっていて、鱗滝=センセイは見送った弟子がほぼみんな最終選別の試練で死んで帰ってこなかったのがでかい傷になっていたり、医者も務めるしのぶさんは、自分を庇って姉が死んだという後悔があるし、みんながみんな重いもん抱えて、それでも生きて戦ってる。
一方で鬼の方も決して一枚岩でなく、鬼舞辻=サンの、まずいラーメン量産しながらそれでもスープの配合も麺も変えない頑固親爺みたいな聞く耳持たなさや、とにかく人間襲って食ってヒャッハーとかに嫌気がさして逃げ出した珠世さんみたいな人もいれば、そこそこ出世できたぜウッハー、と調子こいているとあっさりリストラされて食われちゃう下弦の鬼もいるし、鬼舞辻=サンお前友達いないだろ…。
で、何せ日光が苦手な鬼が相手です、どうしたって鬼を倒す炭治郎と禰豆子の旅は、夜を渡るような地獄巡りの様相を呈しますが、幼い兄妹二人きりでただ旅から旅という暮らしにならなくてよかったなとね、観ていて思うんですよ。善逸と伊之助がいてよかったなと。
いいトリオですよねこの子ら。炭治郎は仲間や兄弟という、面倒を見る相手がいることで折れないでいられるし、伊之助は背中を任せられる友達ができたことで無茶苦茶な戦い方を自制できるようになって、善逸はヘタレだから俺はダメな奴だというセルフイメージを少しずつ見直して、もうちょっとがんばれるかもしれないと思えるようになっていく。3人で足りないところを補い合って、いいチームになってるの。ある意味善逸と伊之助がいてくれることで、炭治郎は人間味をなくさずにいられてる。
鼓屋敷編での「俺は長男だから耐えられたけど」は、一見ギャグのようにも思えますが、あれって実は「そういうマインドセットで闘い続ける」ことを強いられるという、凄まじくひどいシーンなんだけど、そんなものを背負いながらも、友達がいて妹がいるという、決して独りで戦っているわけではないことが、炭治郎には救いになってる。
と、知ったような口を叩いておりますが、私個人としてはこのお二人がなんか気に入っております。
マッドエンジニアって最高だな! それも日本刀なんて、玉鋼の層を2万3万まで重ねる匠の狂気が産み出す至高の一品でしょ。そんなものを日々創造してるエンジニアだからね、たまらねえな!
ちなみに姪のパナールちゃんは、好きなキャラクターが何人もいるので「見る人全部ステキに見えちゃうんじゃ蜜璃ちゃんみたいだね」と言っておきましたが、本人ケタケタ笑っておりました。
お話はこのあと、現在劇場版として公開されている無限列車編に続いておりますが、すげえ気になるよねー。
ヴァンパイアもの好きの視点では、まず鬼舞辻=サンのオブセッションが気になるところです。行きあった酔漢に顔色の悪さをからかわれただけでトサカに来て「私の顔色は今にも死にそうに見えるか」と絡んでぶち殺しって、何を根っこに「死にたくない」に繋がっているのか。その辺は非常に気になるところですが、どうしようかな。原作コミックスはパナールちゃんマグダルちゃんが買い集めていて、いや同じ家の中にもう1セット揃えるのもなあ。電書? と迷ってるところなので、もしかしたら続きがアニメになる方が早いかもしれない。
まあ、その辺についてはおいおい考えます。
改めて自分で観ると、これは何で子供たちに受けたのか、なんとなくわかる気がする。
とにかく炭治郎は闘い方が泥臭くて等身大なので、子供たちは親近感を持ちやすいよね。で、妹や友達を大事にするいい奴でもあるので、ポケモンでいうならサトシ君みたいなもんです。自分も友達になれそうな身近さで、何があろうと友達やピカチュウの手を離さず一緒に歩いてくれて、困ったときには一緒に戦ってくれる。子供たちの憧れの友達。
人間食べ食べシーンがあるというので「進撃の巨人」とも比較して語られることもあったようですが、私、パナールちゃんマグダルちゃんには巨人さんは見せません。巨人さんはね、確かに立体機動装置のガジェットがスタイリッシュでカックイイしアクションすげえとは思いますが、あれ、エレン君は誰も信じられないところで戦ってるでしょ。エレン君だけでない、同じ部隊の仲間たちもみんなそう。チームで動いてるのが、仲間と支え合って、ではなく、それが一番自分の生存性を高めるからでしかないし、信じ合ってる仲間同士でも最後の最後、疑念がひとかけら残るところが残酷だし、何より雑誌掲載時に物議を醸した「お母さんバイキング」で、なんでこれを月マガで連載させちゃったのかと衝撃でした。あれは本来なら、そういうどす黒い展開も受け止められるような読者層の雑誌、そうねハロウィンとかサスペリアとか、そういうところでやった方がよかったんじゃないのか。押井監督と並んで日頃私が尊敬している富野監督は「僕はあれ(巨人さん)を子供や孫に観せたくありません」というようなことをおしゃっていたそうですが、あのお母さんバイキングのくだりでいやというほどわかりました。あれは大人が見るもんであって、子供には触れさせちゃいけない。
で、鬼と戦って手足はおろか頭がゴロンゴロン落ちる漫画が少年ジャンプで連載されてて、アニメが子供たちにバカ受け、というのでちょっと心配だったんですよ。姪ふたりは観たがってるけど、これ見せちゃって無問題なのか? いやそりゃあ俺、今のパナールちゃんぐらいの歳ですでに「吸血鬼ハンターD」とか平気で読んでたけどさ!
そんな不安もあったんですが、実際に観たら実にあんしんアトモスフィア濃厚でした。実際安全な。アクションすごいし首は落ちまくり飛びまくりだけど、それ以前に子供たちが支え合って成長していく姿の方がしっかり描かれてる。巨人さんと違って、大人たちは子供を道具のように利用することはなくて、鱗滝=センセイやお館様はちゃんと何かあれば手を差し伸べる人で、何より炭治郎自身が「方法さえわかれば禰豆子は人間に戻れる」と、可能性を信じている。やっぱりね、子供たちにはそういう、未来や人間を信じるものを見せたいじゃないですか。ねえ。
と、毎度のことながら鬱陶しい感じに仕上がっておりますが、今はこの兄妹の地獄巡りが終わって、夜を渡り歩くような旅から解放されて、揃ってお日様の下を歩けるようになることを願ってやみません。頼む、ひとり残らずシヤワセになってくれ。オッさんからのお願い!
なんかこれ以上やってるとキリがないので、この辺でやめておきます。
次からはまた、通常営業で映画にします。ここまで鬱陶しくならないものにしよう。
第12回 「裏切りのサーカス」
これから青春本番、多感な時期の子供達の映画のお次がこれってのもどうなのかとは思うけど、好きなもんは仕方ない。
今回はこれ。「裏切りのサーカス」です。
え、画像のタイトルが違うって? いやいや、これは原題なので大丈夫。原作はジョン・ル・カレの同名の小説です。
押井守作品と並んで、もう何回観てるのかわからないくらい観ております。そのぐらい回数を重ねて観る価値がある映画。あと、物語が深いので、何度も観ないと追いつかない。観る喜びに満ちた作品です。
深夜の密会からポーランドへ。そして唐突な事件。物語は、英国情報部に潜むソヴィエトのスパイを炙り出せと主人公・スマイリーが密命を下されることで始まります。
冒頭で情報部の総責任者・コントロールと共に組織を追われ去ったスマイリーが集めたチームは、若い情報部員のピーターに元警部のメンデル。作戦の存在自体を知るのは国防大臣次官のみというミッションは、スマイリー自身の過去、組織の重ねた歴史を重層的に描きながら、静かに、そして過酷に進んでいきます。
使命は暗に「もぐら」と呼ばれる内通者の特定。でもそれは、かつて苦楽を共にした戦友たちを徹底した疑いの目で見て洗い出すことだった…。
取り返しようのないすれ違いの末に自分を追い出したとはいえ、それでも戦友だったのは事実。その思い出があるだけに、自身が組織を追われたのと同時期にやはり退職を強いられた仲間たちと面会を重ねるうちに、徐々にことの真相がはっきりしていきます。
そして、隠れているもぐらを引きずり出す作戦が決行され、その場に姿を見せたのは…。
という、まあこんな感じのお話ですが、とにかく丁寧に丹念に作られた作品で、細部にまで気を配られています。さすが実際に英国情報部に在籍していた作家の小説を映像化しているだけに、とにかく重厚でケレンがありません。
冷戦時代の諜報戦、というだけでなく、その諜報戦にどんな人間が携わっていたのか、彼らは何を目指して日々、頭が煮えるほど考えを巡らし、ときに手を汚してまで知恵を搾り戦ったのか。そして、もぐら捜しと並行して描かれる、寄宿学校の新任教師と内気な少年の交流を通して、スパイというものがどんな思考をする能力を求められるのかが語られています。
スパイものだからといって、派手なアクションは一切ありませんが、その分、実際のスパイ戦というものをじっくりと見せてくれます。ときに自分が属する組織すら謀り、仲間すら欺き、目的を果たすために全霊をかける。下手にアクションを見せるよりシビアで過酷です。
それだけに、演じる俳優陣も目から血ィ噴きそうなほど豪華なラインナップです。ガチで芝居のうまい人しか呼んでない。
主演はゲイリー・オールドマン。「レオン」のときはふーん、って感じだったけど、この映画のゲイリー・オールドマンはすげえいいです。いい枯れ具合の程よいおっさんです。ピーターはベネディクト・カンバーバッチ、スマイリーの友人で組織に残ったヘイドンはコリン・ファース。すごかろ。これだけで白飯3杯いける。
またシナリオがいいんだ。時折インサートされる、東ドイツ大使館でのクリスマスパーティーの様子がねえ。みんなでわいわい酒呑んで楽しく過ごして、という過去があるだけに、今あいつもこいつも疑ってかからないといけない皮肉な状況というね、それがとにかくつらいやらかなしいやら。昔はよかったのにね、と映像分析班のコニーが言うと「戦争の時代だよ、コニー」ってスマイリーが返すのがね。
あ、やべえ。今、教師と内気なぽっちゃり君の会話でうっかり泣きそうになった。何回か観てると、初見の人が驚愕で「アイエエエエエエエ! 」ってなるようなタイミングで泣き出す、「スカイ・クロラ」と同じ現象が!
「何人か知り合いにビルがいる。中にはいい奴がいた」って、ああ! もう!
あとねえ、個人的に最大の見どころは、途中でスマイリーのところに助けを求めてやってくる、情報部の汚れ仕事や濡れ仕事を請け負うリッキー・ター!
すっげえかわいいでしょう。初めのうちは物語自体を咀嚼するので手一杯で見落としてたんだけど、この前いきなり気がついた。
トムハじゃん! トム・ハーディ!!
どんだけ化けるんだよ!
てゆうかこんなかわいい系の濡れ仕事屋って、英国情報部すげえ趣味よすぎ。
だけどまじでかわいそうなことになるんだよね。リッキー。報われないイケメン。でもかわいいんだよねえ。「タイプじゃないのに」好きになっちゃった女性のためにがんばる、健気なわんこみたいな子です。
最初の1回では、たぶん表層の出来事だけを追いかけるのでいっぱいいっぱいになると思いますが、しっかり楽しみたいなら5回は観ましょう。そういう映画です。
同じ映画5回も観てられるか、なんておっしゃらずに。騙されたと思ってご覧ください。観るたびに違う楽しみ方ができる映画です。誰の立場で観るか、どこを観るか。それでハマったら、おめでとう、そしてようこそ沼へ。
沼へきたならおわかりいただけると思います。なんで私がいきなり名前の話で泣き出すのか。
とにかくこの映画、語ろうと思うと、部分を軽く語るだけで軽く3万字は超えるので、この程度でやめておきます。
あ、大使館のクリスマス会のシーンはすごいですよ。ここに色々なものが凝縮されてるし、レーニンお面のサンタが指揮者して全員でインターナショナル合唱という、パンチが効きまくった演出もあります。ブリティッシュジョークここに極まれり。
この映画には、徹底して顔を見せず、登場人物たちの会話で語られるのみであるが故に存在が強固になるキャラクターがいますが、この人物がどでかい作用をもたらすことで、物語が大きく決定づけられています。それがどんなものなのか、ぜひご自身の目でお確かめください。
さっきから観ろ観ろとしつこいですが、うん、自覚はある。でもそのぐらいすごい映画なの。しつこく勧めたいぐらいに。お願い。観て。
私は小金が貯まったら円盤買う。決めてる。そのぐらいすごいので、どうか記憶に留めるだけでも、名前だけでも覚えていってください。
端正に作られた、いい映画ですから。
第11回 「スタンド・バイ・ミー」
ぎっくり腰だいぶよくなりました。
で、何観ようかなと動画配信サイトを徘徊した結果、今日はこれ。
「スタンド・バイ・ミー」。
ドラえもんじゃない。あっちは忘れてくれ。青い猫型ロボットはどうでもいい。
主人公の子供たち4人のうちのひとりを演じてたリバー・フェニックスは死んじゃったし、その弟はええおっさんになっちゃったけど、いまだに残ってるよね。この映画。
こんな名作が原作はスティーブン・キングってのも意外だけど、原作の短編のタイトルが「死体」ってのは、いくら何でももっさりしすぎもいいところだろ。
お話は原作者の実体験、12歳の夏の出来事だそうですが、子供たちは観ている誰しもが共感できる要素を持っていて、自分の子供の頃を思い出したりもする、そんな映画です。
主人公のゴーディは優等生で、両親の自慢の種であり、自分をかわいがってくれていた兄さんを事故で亡くし、ただでさえ親に無視されていたところに更に家庭での居場所をなくしている子で、友達も家庭に問題を抱えて、兄貴がぐれていたり酒乱の親父に殴られるのが日常だったりする子で、居場所のない子供たちが肩寄せ合って支え合っているわけです。
で、そんなある日、仲間内でもちょっと間が抜けていて足を引っ張りがちだけど、悪知恵もないぶん憎めないバーンが「死体見に行こう」と持ちかけることで、子供だけの小旅行が始まります。この道中で、各々が来し方行く末の自分の道に何となく向き合ったり、いろんなものを乗り越える覚悟の、最初の一つを固めたりするわけですが、ゴーディの親友・クリスが、兄貴がぐれてたり親がろくでなしだったりするせいで苦労している分、仲間内では一番早く大人にならざるを得なかった子で、だからすげえ仲間思いのいい子なんだ。ゴーディに「お前の小説すげえんだから絶対書け」と励ましたり、しょっちゅう親父に殴られているからか万事に投げやりなテディが列車相手にチキンレースしようとすると強引に線路から引き摺り下ろしたり、バーンのことも邪険にはせず、とね、お前は兄ちゃんか! とにかくそのぐらい大人なんだけど、だからこそその分抱えてるものがでかいことを窺わせる、大人から見ると気がかりな子なんですわ。兄ちゃんが死んで親に愛されてないと悟るぐらい賢いゴーディと、この子はすげえ心配な子。
子供たちは線路沿いに目的の森へ向かって歩く間、夜に焚き火を囲んでゴーディが自作を語り聞かせるんだけど、何でこの路線を固持しなかったスティーブン・キング…。今書いてるもんよりこっちの方が面白いぞ…。
一方で、クリスの兄貴・アイボールはいつもつるんで遊んでる不良のリーダー・エースと一緒に、退屈しのぎの遊びの一つで死体探しを始めますが、兄貴は兄貴で「付き合ってる女の子がやらせてくれねえ」とか、まあ、クリスよりもうちょっと大きくなると悩みの性質が変わるよなと。ただ、弟の方が賢いぶん、悩みと言ってもその程度で、だからまあこいつはほっといても大丈夫だな。ただしこいつが何も考えてないおかげで、クリスがしなくてもいい苦労をさせられてる。
あとねえ、今これ書くためにちょっと調べたら、エースはキーファー・サザーランドがやってたのね。イッケメエエエン。
翌日、子供たちは途中で近道したらヒルにたかられたりと大騒ぎしながらも目的地━━死体のある森にたどり着きますが、そこでやってきたエースとアイボールに遭遇。ガタイもでかいし喧嘩慣れもしているうえ、頭も切れるエースにずっと敵わなかった子供たちは、この困難をどう乗り越えるのか?
そこはまあ、ご覧いただいてのお楽しみとしても、アメフトチームのキャプテンで、不良のエースですら一目置いていた兄ちゃんこそが、いや、そんな最高な兄ちゃんを亡くしたという事実が、実はゴーディが乗り越えなければいけない壁だったのかもしれない。自分の顔を見ると兄ちゃんの話しかしない町の人間、いつまでもいなくなった長男しか見ていない親、そういう全員が抱えている兄ちゃんの記憶を、いかに蹴り飛ばしていくか。
この4人を見てると、子供のうちは一緒に旅をしてちょっと大きくなれるような気がしたけど、大人になると、ああ子供はちゃんと見守って関わってやらないとダメなんだなと思ってしまう。そんな映画です。
この4人の子供たち、ラストでそれぞれのその後が語られますが、クリスがすげえがんばって、兄貴みたいにはならねえと強く思っていたのがよくわかるよねえ。
がんばったけどダメだった子、がんばりが報われた子、手の届くところで地道にやっていく子、それぞれのその後が明暗を分ける様が、大人になること、生きていくことを端的に物語っていて、それが切ないんだ。これがあるからこそ、いまだに残る作品になっているんですよ。
これからこの映画に出逢う子供たち。
いいか、俺のような薄汚れた大人にはなるんじゃないぞ。
おっさんとの約束だ。